お洒落な店が並ぶ通りで、娘と待ち合わせ、
ウインドーショッピングを楽しんだ。
賑やかな商店街の脇道に入った時、
がに股で、足を引きずるようにして、
ゆっくりと歩く年配の男性と擦れ違った。
その男性の前ズボンの一部が、
濡れて、色が濃くなっていた。
股間を中心に、世界地図のような濡れ方で、
どう見ても、お漏らしとしか思えない。
よたよた歩くその姿は、アル中にしか見えない。
だぶん、娘も、その男性を見たと思う。
でも、私たちは、その話題には触れなかった。

私の頭に、夫の顔がよぎった。
飲み続けている夫のなれの果てを垣間見たような???
こんな姿で公道をさまよう日が、
そう遠くないような気がして……。
何か手を打たなければと、心がはやる。
でも、私に何が出来るのだろう。
夫は、酒を飲まないと気が済まない病気だ。
周りが治療の必要を力説しても、
本人が治したいと思わなければ、回復は難しい。
私の力で、
どうにかなるものではないのだ。
体調不良で欠勤が目立つ夫に、
とうとう、社長の重い口が開いた。
薬漬け(糖尿病)なので、車の運転は危険との事で、
担当の営業先を後輩に引き継ぎ、
7月からは、内勤での業務を勧められたそうだ。
一日中、事務所にいるなんて、耐えられそうもないと、
夫は、ひどく憂鬱になっている。
外回りの営業が出来ないのなら、
もう働きたくないというのが、夫の本音らしい。
失業???
漠然としていた将来への不安が、現実味を帯びて来た。
裏通りで見た、
悲しい光景が目に焼き付いて離れない。
とにかく、苛立っていた。
原因は、私だ。
「帰って来ないからね! 外で泊まる!!」
小さなカバンに、2日分ほどの処方箋を投げ入れて、
夫は、家を出て行った。
前の晩のやり取りが思い出される。
「明日、『あじさい祭』に行こうよ」
「遠いし……、長時間の電車は、ちょっと。。。。」
気乗りしない私の返事に、夫は不快感をあらわにした。
「もう、いい!! 一人で行く!!」
私は、人ごみが苦手で、
ここ数年は、電車にも酔うようになってしまった。
電車やバスに揺られて、のんびり気ままな旅!?
そんな気分にはなれないのだ。
その会場には、過去に3回ほど行ったが、
いずれも、夫の車の助手席に座っての移動だった。
自損事故以来、夫はプライベートでの運転を一切しない。
運転の苦手な私が、ハンドルを握ることも有り得ない。
つまり、『あじさい祭』会場へは、
電車やバスを乗り継いで行くしか方法がないのだ。
それが憂鬱で、夫の誘いを躊躇してしまい……。
気まずい空気のまま、朝を迎え、
夫は、有言実行したのである。
連れの私がいなければ、
夫は、昼間から好きなだけ酒が飲めるし、
寝ぼける夫がいなければ、
私は、夜中に起こされずに安眠できる。
夫にも私にも、好都合ではないか。
しばらく、解放感に浸っていたが……。
さすがに、日が落ちて来ると、
出て行ったままの夫の様子が気になり、
携帯にメールすると、返信が……。
「○○山駅前のホテルで、夕食中。
さっき、チャリと衝突した」
自転車とぶつかるって、どういうこと???
酔ってふら付いていたから???
すぐに、酒と結び付けてしまう私がいた。
詰まる所、自転車が夫に突っ込んで来たそうで……。
倒れた夫は、手と顔にすり傷を負い、
お気に入りのサングラスと腕時計にもすり傷が……。
相手の方が修理を申し出て、一件落着したようだ。
夫はホテルに泊まるので、今夜は戻らない。
私は、戸締りを済ませ、寝床に入った。
すると、メールの着信音が……。
夫からだ。具合が悪いのだろうか?
恐る恐る開くと、
「探し物が見つからなくって」の文字が……。
いったい何のことだか、要領を得ない。
「何を探しているの?」の問い掛けに返信はなく……。
おそらく、酔っ払って、寝てしまたのだろう。
「探し物が見つからなくって」???
夫は、自分の生き方を模索しているのだろうか。
でも、アルコール漬けの頭では、無理だ。
家にいても、酒を飲む。
環境を変えて、ひとりになっても酒を飲む。
結果は同じだ。
飲むことから、逃れられなくなっている。
全ては、病気の所為だ。
いい加減、飲んではいけない身体と受け止め、
次に進んで欲しいのだが……。
不器用な生き方しかできない夫が哀れでもあり、
いとおしくもある。
私に出来ることは、静かに見守るだけ。
私には、夫の飲酒を止める力はないのだ。
それにしても、今年の夫は、よく当たるなぁ。
ガードレール、電柱、壁、自転車etc.
この調子だと、
宝くじも当たるのではないかと期待してしまう。
夫が戻ったら、まずは、宝くじ売り場に連れて行こうと、
億万長者を夢見ている。
やはり、打ち所が悪かったのだろうか。
自転車にぶつけられた夫の病院通いが始まった。
当初、目立った外傷は右腕の腫れと変色。
整形外科で間に合うと思っていた。
ところが、頭を打った可能性も出て来て、
脳神経外科を勧められ、受診。
検査の結果、脳に異常は認められなかったが、
右顔面の神経麻痺があったので、耳鼻科へ……。
糖尿病の薬を飲んでいるので、
ステロイドが使いにくいらしく……。
医者に、麻痺は残るような言い方をされたそうで、
ひどく、落ち込んでいた。
鏡を食い入るように見つめながら、
目を見開いたり、瞼を閉じたり、
口を上下左右に動かしたり……。
いろんな顔つきに挑むのだが、
右顔面は無表情のままだった。
あげく、右目の違和感を訴え、眼科の診断も受けた。
事故以来、夫は会社へは行かず、ずっと休んでいる。
治らないかもしれない。。。。。
募る不安を酒で紛らす夫。
深酒は、思考回路を壊すようで、
夫の言動は、日ごとにおかしさを増していった。
そんな自分を、自分自身でも変だと思い始めたようで、
自分が何を仕出かすか分からないと言い出す始末。
記憶力もすっかり低下した様子で、
一日の出来事を何度も私に話すようになった。
自分の記憶に自信がない夫は、自身の喋った内容を、
私に覚えておいてもらいたいからと言っているが……。
「今、俺が話したことを、もう一度、言ってみて!!」
話の途中で、内容の復唱を迫るのだ。
私の記憶力を試すかのようなやり取りが、
深夜になっても、延々と続く。
そして、私の受け答えが話半分で曖昧だったりすると、
物凄い勢いで責めたてるのだ。
私だって、老化の波に乗っているのだ。
最近は、ど忘れも目立って来て、
夫の話をもらさず記憶しておくことは無理だ。
尋問されているような恐怖感で、
半べそをかいているうちに、しらじらと夜が明けて……。
しかも、その間、夫は酒瓶を持参して、
「ずっと前から、隠れて酒を飲んでいた。煙草も……」
と、カミングアウト???
夫の中で何かが吹っ切れて、居直ってしまったのである。
尋問のような深夜の復唱が数日続き、
私の心は追い詰められていた。
もう、勘弁してほしい。夜が怖い。。。。
そんな私の心を見透かしたかのように、夫は言った。
「明日、病院の帰りに、離婚届の用紙をもらって来るから…」
短絡的思考だとは思ったが、
反論する気にもなれなかった。
また、ぶつかった!!
呪われているとしか思えない。
厄払いが必要だ。
その日、夫は、自転車事故時の治療で、
再び、脳神経外科と耳鼻科を受診。
お昼過ぎ、一人でタクシーに乗り、
自宅に帰る途中の出来事だった。
赤信号に気付くのが遅れた運転手が、
慌てて急ブレーキをかけたので、
後部座席にいた夫の体が前に飛び出し、
助手席シートに胸をぶつけたそうだ。
自損事故時の胸骨骨折が落ち着いた矢先に、
また、胸を打つことに……。
乱暴な運転を許したくないので、
お巡りさんを呼び、病院で診察も受けたそうだ。
2度あることは3度ある!?
事故が続き、体のダメージも大きく、
精神的苦痛も計り知れない。。。。。
夫は苦渋の中にいる。力になりたいのに、
夫の言動は過激になるばかりで……。
私の受け答えの上げ足を取って、攻撃してくる。
「俺もおかしいが、おまえもおかしい。
おまえの頭は、おかしい!!
ちゃんと、自分がおかしいことを認めろ!!」
私は、しらふなので、
酔っ払いの夫よりは「まともだ」と思っていたが……。
立て続けの事故で、
混乱している夫をこれ以上刺激したくなかった。
夫の主張通り、私は「おかしい人」でいいと思った。
おかしい人だから、何の役にも立たない。
何も出来ないこと、力になれないことを夫に詫びた。
すると、夫は、弱々しい声で言った。
「助けて。
体も頭もおかしくなっちゃって……。
本当は、離婚なんかしたくないんだ。
離婚届をもらって来るなんて、ウソなんだ。
ごめん。 ごめんなさい。。。。許して。。。。」

自分の身に何が起こり、この先どうなってしまうのか。
不安は、さらに大きな不安を呼び、
夫は、まるで幼子のように怯えていた。
「事故の後遺症も心配だけど……。
まずは、お酒をやめないと、具合は良くならないと思う。
一人では無理だから。
ちゃんと、専門病院に入院して、治療しようね。
9月には、花嫁の父になるのだから……。
娘の手を引いて、バージンロードを歩くんだから、ね」
夫は、声を押し殺して、泣いていた。
今度こそ、きっと、うまくいく。
アルコールと縁を切って、新しい生き方が始まる。
小さな希望が見えたような気がしたが、
せっかちな私の勘違いだった。。。。。
たらい回しのような病院通いに、
疲れてしまったのかもしれない。
夫は診察を終えると、その足で電車に飛び乗り、
離れて暮らす娘に会いに行ったらしい。
今まで、娘の家へは車で行っていたので、
夫は、電車での行き方に疎かった。
途中の乗換駅で迷ってしまい、
改札を出て、人ごみをさまよううちに、
自分がどこにいるのか分らなくなってしまったそうだ。
うろたえ、取り乱す夫からの電話を受けて、
私も驚きあわててしまった。
仕事を早退して、取りあえず、現場へ向かった。
夫を迎えに行くための電車を待つ駅のホームで、
娘の携帯に電話を入れた。
娘は外出中で、式場の打ち合わせが済んだ所だった。
夫がいる場所に近い駅にいたので、応援を頼んだ。
一足先に着いた娘が、父親に寄り添って、
私の到着を待っていた。
夫は、ケロッとしていた。
電話口で、震える声で助けを求めていた、
頼りなげな夫は何処……。
夫は、事態を把握しているのだろうか。
父親の容体を案じて、その日は、
娘も実家に戻り、泊まってくれた。
家の中に、若い娘がいると、ぱっと明るく華やぐ。
夜遅くまで、親子3人の楽しいお喋りは続き、
そろそろ、お開きと思っていたら、夫の様子が急変した。
夫が、何か話そうとしているのだが、
口がパクパク動いているだけで、声がないのだ。
よく見ると、顔が、体が、小刻みに震えている。
手のひらや額に、じっとりと汗をかいていた。
こんな夫の姿を見たのは、初めてだった。
どう対処したらいいのか、見当がつかない。
昨夜、インスリン注射を忘れた夫は、
1日1回の処方の注射を昼と夜で2回分打っていた。
もしや、これが低血糖の症状なのだろうか。
思いつくままに、ブドウ糖の錠剤を夫の口に入れた。
夫は、きょとんとした目で、私を見つめていた。
娘が、「パパ、パパ」と問い掛けても、
口元は動いているのだが、言葉が出なかった。
数分して、ブドウ糖の錠剤を吐き捨てると、
何事もなかったかのように、夫はもとに戻った。
娘も私も、ほっと胸をなでおろしたのも束の間、
また、同じように震え出し、
今度は、座っていられず、倒れ込んでしまった。
口をパクパクしているだけで、声が出ていない。
あわてて、救急車を呼んだ。
救急隊が家についた時には、震えも治まり、
夫は、話も普通に出来る状態だった。
病院に行くことを夫が強く拒んだため、
呼んだ救急車は引き上げて頂くという、
大変申し訳ない結果になってしまった。
「本当に大丈夫なの?」
心配する私たちに、夫は言った。
「ごめん。 ちょっと、おどかしただけ。
わざとやったの。 驚かせて、ごめんね」
なんか、しっくりしなかったが、
見た目はいつもの夫に戻っていたので、
追求することなく、終わりにした。
夫は、誰よりも早く、
自身の身体の異変に気付いていたのだと思う。
週明け、専門病院へ行くことを約束してくれたのだ。
そこは、3年前、入院治療でお世話になった病院だ。
夫にとっては、嫌な思い出しか残っていない所だ。
回復の兆しを感じて、家族は、夫の決心を喜んだが、
事は、スムーズには運ばなかった。。。。。
専門病院への受診日、
夫の気が変わることのないよう、
娘も一緒に付き添う手はずを整えた。
親子3人で小一時間、
電車に揺られ、海辺の病院を目指す。
下り電車の車内は空いていた。
夫を中心に並んで席に付き、雑談。
ちょっとした行楽気分だった。
いざ、病院に到着すると、
ここかしこでざわめいていて、
案の定、長時間待たされ、気分は一気に沈んだ。
夫を診察した医師は、淡々としていた。
「アルコール性の肝硬変ですね。
入院治療された方がいいと思いますが……。
どうされますか?」
決して、強要はしない。
「事故のケガの治療が途中なので、
すぐに、入院は無理なのですが……」
この期に及んで、夫は、まだ、ためらっている。
「日程の方は、調整できますから、
取りあえず、入院予約を入れた方がいいと思いますよ」
医師が、夫の出方を窺っていた。
じれったくなって、つい、口を挟んでしまった。
「予約、申し込んでおこう、ね」
夫に同意を求めてしまった。
「……入院で、お願いします……」
こうして、受診から約1週間後が、
夫の入院日に決まった。
着々と事が進んでいる。
私は、夢のような心地で、幸せだった。
ところが、帰路、またまた、夫の様子がおかしくなって……。