この病気に罹っている人は、全国に200万人以上。
仲間は、たくさんいるのだ。
そして、再発した人も、掃いて捨てるほどいるのだ。
だから、夫の再発を悲観しても始まらない。
が、落胆は、日々大きく膨らんで。。。。。
将来への不安に押しつぶされそうになる。
この病気の平均寿命は、52歳。
カウントダウンが聞こえて来るような。。。。。
今秋、夫は52歳になる。
あぁ、神様、仏様……。
どうぞ、私に、
立ち向かう勇気、楽しむ元気、
そして、諦めない根気をお与え下さい。
苦しい時の神頼みで、
折れそうな心を持ちこたえている。
病気の兆候は、かなり前からあった。
でも、まさか、うちの夫が……。
打ち消す思いの方が強くて、
本当の病名を受け止めることが出来なかった。
夫は、自他ともに認める酒豪だ。
夫に負けじと、
私も多量の酒を体に流し込んでいた。
米は切らしても、
酒を買い忘れることはなかった。
1年、365日、晩酌!!
だらだらと、飲んで食べて、
将棋やトランプに興じた。
勝った者は、気分上々で、酒がすすみ、
敗者は、口惜しくて、酒をあおる。
どっちにしても、飲むことに変わりはなく……。
酔いが回り、睡魔が押し寄せて、ゲーム終了。
大体が、私の負けで、
勝った夫は、ご機嫌のまま、爆睡なのだが……。
3か月に1回くらいは、
酒絡みの事件が勃発していた。
「酒が強い=内臓が強い」という訳ではない。
大量の飲酒は、内臓にダメージを与える。
30代の頃から、夫の健診結果は、
毎年、「再検査・要」だった。
私が、いくら勧めても、
「忙しい、面倒だ。必要ない」の一点張りで、
病院へ行かないのだから、改善するはずがない。
まだ若かったので、それなりに体力もあり、
日常生活に何ら支障もないように見えた。
仕事は順調で、
毎年のように、優秀営業マンとして表彰され、
その金一封で、
会社の仲間と一晩飲み明かすのが恒例になっていた。
私の実家に、同居して8年、
これからも、マスオさん的な暮らしが続くと、
高をくくっていた、そんな時だった。
人事異動(転勤)に夫の名前が挙がっていることを、
私たちの仲人でもある常務から、早々に知らされ……。
「転勤を望まないなら、配慮するから……。
会社を辞める必要はない」
常務は、転勤に消極的な夫を案じてくれた。
単身赴任も考えたが、
まだ、子どもたちが小さかったので、
家族4人で引っ越すことを選んだ。
神奈川県から千葉県へ。
36歳の夫は、柏営業所の所長を任された。
その重責からか、酒の量が一段と増したように思う。
ある日の朝、いつものように、冷蔵庫を開け、
朝食用の食材を取り出した。
びしょびしょに濡れていた。
不思議に思って、庫内を確認する。
水物がこぼれた形跡はない。
昨夜、夫は泥酔していた。
おそらく、冷蔵庫をトイレと間違えて、
用を足したのだと推測できる。
現行犯ではないので、夫を追及しなかったが……。
この頃から、危ない飲み方が始まっていたのだ。
不惑の年を迎えようとしていた、
2000年3月、夫は、決断した。
新卒で就職し、
東京、多摩、横浜、柏、広島営業所と異動はあったが、
18年近く、お世話になった会社を辞めた。
40歳を過ぎると、採用枠が少なくなるから、
39歳で再就職を……と、考えていたようだ。
しかし、就職活動は、思いの外、難航した。
再就職した会社は、肌に合わず、半年で退職。
再々就職した会社は、なんと、半月で辞めてしまった。
貯金は底を突き、将来が見えなかった。
酒なんか、飲んでる場合じゃないのに……。
辛いことや悲しいことがあると、お酒に頼ってしまう二人。
夫は、再々々就職したが、
着実に、体は、酒に蝕まれていた。
44歳の夏、
夫の健診結果の異常な数値に驚いた医師が、
直接、夫の会社に電話して来て、再検査をすすめたのだ。
「 多くの患者を診てきたが、こんな数値を見たことない。
このままの生活を続けたら、
命の保証は出来ません。。。。」
身長176㎝、 体重63㎏、 総コレステロール432、
中性脂肪2379、 γーGTP815、 血糖155。
女医の話で、事の重大さに気づいた夫は、
遅ればせながら、精密検査を受けることに……。
子どもたち(当時、息子~大学2年、娘~高校2年)が、
大学を出るまでは、生きていてほしい。
せめては、下の子どもが、
成人するまでは、生きていてほしい。
寝酒が習慣化して、深酒する事も多くなり、
夫の寿命が尽きるのが、そう、遠くないように思えた。
だから、再検査を受ける気になってくれたので、
少しだけ、 ほっとした。
治療をすれば、良くなると思っていた。
検査結果をもとに、女医が治療方針を示した。
肝機能を改善するため、まずは10日間の禁酒。
中性脂肪とコレステロールを下げるため、体を動かすこと。
夫は、1日1万歩以上を目標に、
時間の許す限り、歩くことを優先した。
もともとが、体育会系なので、
運動は苦にならない様子だった。
しかし、禁酒は、相当、身に応えていたようだ。
晩酌なしの夕ご飯は、あっという間に終了してしまい、
見たいテレビ番組もなく、手持ち無沙汰で……。
布団の中で本を読みながら、睡魔を待つも、
一向に眠くならずに夜が明けて……。
不眠を訴えて、機嫌はすこぶる悪い。
私の何気ない会話にも苛立ち、
いちいち上げ足を取るので、ほとほと閉口した。
長い10日間だったが、
禁酒した甲斐あって、検査結果は少しだけ改善した。
私も夫の禁酒に付き合って、酒を我慢した甲斐があった。
「この調子で禁酒生活を続ければ、正常値になれるね!」
やる気になったのは、私だけ。
「今日で、禁酒期間はおしまい!!」と宣言し、
待ってましたとばかりに、夫は晩酌再開。
その結果、次回の検査では数値は再び異常に……。
女医の口から、
「1か月の禁酒」という言葉が飛び出すと、
夫は、耳をふさいでしまった。
「10日が限界。1か月なんて、冗談じゃない。
それに、医者が言うほど、体の調子は悪くないし……」
夫は、早々に受診をやめた。
「好きな酒を飲んで、死ぬのなら、本望だ!!」
夫は、開き直ってしまったのだ。
「あと、10年、生きれれば、いいんだ。
それ以上、長生き出来たら、儲けもん!!」
45歳にして、勝手に、自分の寿命を決めてしまった夫。
再検査で、多量の酒が、
体に災いしていたことが証明されたのに、
適量で、飲酒を終わらせることが出来ない。
会社の仲間と飲み歩くと、
ぐでんぐでんに酔いつぶれて、
必ず、どこかに怪我をして帰って来た。
手から血を流していたり、
足に大きなアザ、頭にコブ……。
本人は、何処でどうしたのか、
ほとんど記憶がないのである。
家で飲んでいても、悪酔いするようになっていた。
怒りっぽくなって、喧嘩越しの物言いになるので、
一緒に飲んでいても、楽しくない。。。。。
夜中、喉の渇きで、目が覚めた夫は、
冷蔵庫の中から、缶ビールを取り出し、
水代わりに飲むようになっていった。
休日は、早朝から、ベランダに出て、
缶酎ハイを一気に飲み干して……。
日中も、ウイスキーの小瓶をラッパ飲み。
明らかに、異常な飲み方だった。
「アル中!?、アルコール依存症!?」
そんな病名が頭に浮かんだ。
私は、手当たり次第、アルコール依存症の本を読み漁った。
読めば読むほど、夫の症状が当てはまった。
なまじ、アルコールに強い体質が、裏目に出たのだ。
飲んで、飲んで、飲み続けた結果、アルコール漬けに……。
体内のアルコール濃度が少しでも下がると、
脳が、アルコールを補給するよう、指示をする。
やっかいな病気だ。
「酒をやめられないのは、意志や道徳の問題ではない。
脳内に出来たアルコール回路の作用」
つまり、アルコールによる脳の障害の一種なのだ。
夫が、どんどん壊れて行くのに……。
私は、非力だ。
そして、無力だ。
一緒になって、酒をあおっていた。
きっと、私も、病気だ。
45,46、47歳と、
アルコール摂取量は、うなぎ上りに……。
それに反比例するかのように、
体重はどんどん落ちていった。
「酒は百薬の長」ではない。
度を超えた飲酒は、毒以外の何物でもない。
毒を少しでも抑えたくて、
焼酎のお湯割りを薄めて作ったり、
酒の買い置きを隠したりもしたが、
そんなことは、無意味だった。
飲み足りない夫は不機嫌になり、暴言を吐き、
ヨロヨロしながら着替えると、
フラフラしながら外へ飲みに……。
「酒を飲み出したら止まらない。
夫は、そういう病気だ。
私に、それを治す力はない」
夫が、自分の病気に気付いて、
専門医の治療を開始するよう、
その時が、一日でも早く訪れるよう、
祈りながら、夫の状態を見守った。
夫は、深酒の影響で、眠りが浅くなり、
慢性的な体のだるさを訴えていた。
外回りの営業だったので、車の中で休んだり、
仕事の途中で自宅に戻り、寝ていることが多くなった。
食事をすると、必ず下痢に……。
栄養が吸収されず、体重は10㎏近く減った。
頭もボーとして働かず、 仕事上のミスが目立ち始め、
すっかり、夫は自信を失っていた。
2008年10月、
「もう、駄目だ。会社を辞める。。。。」
夫は、思い詰めていた。
体を騙しだましの勤務は、限界だったのだ。
「まずは、病院に行こうね。 いっしょに行こうね」
私の実家近くの総合病院を勧めると、
夫は、観念したかのように承諾した。
治療が始まれば、
きっと、酒まみれの生活から足を洗える。
少し、希望が見えた。
目のかすみがひどく、チクチクと痛い。
足がしびれる。つる。冷える。歩行困難。
やたらと、のどが渇く。
腰や背中に鈍痛。
いくら食べても、空腹感がある。
体がだるく、疲れが取れない。。。。。
初診時、思いつくままに、夫が症状を訴えると、
それに見合った検査が、次々と用意され……。
GOT 216, GPT 101, γ-GTP 1474 で、
肝機能障害、肝硬変の手前。
血糖 272 で、重度の糖尿病。
「辛かったでしょう。よく、我慢してましたね。
これからの人生を大切にするためにも、
しっかり、治療しましょう。
47歳と、まだ、若いのだから……。
ご主人に、万が一のことがあったら、
奥さんもお子さんも悲しみますよ。
奥さんも、いっぱい心配されたでしょう」
新患担当医は、
同席している私にまで、気遣いを見せてくれた。
こうして、眼科、消化器内科、糖尿病外来と、
各科をはしごしての病院通いが始まったのである。
処方された薬は、忘れず飲用したが、
「酒を飲まないことが最大の治療法」
という、医師の指導は、守れなかった。。。。。
季節は師走、忘年会で飲酒三昧の日々。
とうとう、年末の土日、夫の体が悲鳴を上げた。
みぞおち辺りが、刺すように痛み出し、
次第に、脇腹から背中にかけて、痛みは広がり、
夜も眠れない激痛に……。
12月29日の月曜日、朝一番で病院に駆け込んだ。
2008年、年の暮れ、
新年を迎えるワクワク感は、吹っ飛んだ。
大晦日、酔いつぶれることなく、
最後まで、紅白歌合戦が見れたのも、
朝酒もおせち料理もなく、元旦に突入したのも、
全ては、12月29日に、
夫が、急性膵炎で緊急入院してしまったから。。。。
夫の1日も早い全快を祈って、
のん兵衛の私は、酒断ちで、願掛け。
電車に乗り、夫の入院先の病院へ通うのが、
私の日課になった。
絶対安静の夫は、
最初の5日間は絶飲絶食で、点滴は24時間。
激痛から解放された夫は、
「腹減った~~~。メシ食いて~~~」
と、しきりに空腹を訴えていた。
夫を見舞う前、
小腹が空いていた私は、
売店で買ったチョコを一気に食べた。
その空箱に気付いた夫は、
「ちょっと、貸して」と、言い出し……。
何度も何度も、鼻にこすり付けて、
チョコの残り香を嗅いでいた。
甘い物が苦手で、
今まで、洋菓子も和菓子も駄菓子さえ、
口にしなかった夫が、である。
痩せ細った腕に、点滴の注射針が固定され、
不自由を強いられ、その上、ひもじさに耐え……。
病気とはいえ、夫が気の毒に思えてならなかった。
6日目から、流動食になったが、点滴は24時間。
15日目に、やっと、点滴の注射針が外された。
体内のアルコールは、すっかり、抜けたようで、
夫は、日毎に体の調子が良くなり……。
初めての入院、
体のオーバーホールは、20日間で無事終了した。
家族に、いっぱい、心配をかけ、
自分も、死ぬほど痛い思いをしたので……。
さすがに、退院当初の夫は、
アルコールに手を出さなかった。
夫の再発を恐れる私は、
以前のような、酒の買い置きはやめて、
禁酒生活を続行した。
1か月近くの禁酒で、
夫の臓器が元気を取り戻すと、
我慢の限界とばかりに、アル中の血が騒ぎ出し……。
「少しくらいなら……大丈夫」
と、勝手に酒解禁してしまったようで、
外で、こそこそ飲んでいる様子がうかがえた。
こんな調子じゃ、再発は時間の問題。
酒を遠ざけたくて、
私は、晩酌なしの献立を出し続けた。
夫は、つまらなそうに、まずそうに、
時には、苛立ちながら食べていた。
そんな夫の姿を見るたびに、
やりきれなさが募り、心は重くなるばかりだった。
病院で栄養指導を受けた私は、
料理嫌いを返上して、手作りに励んでいるのに……。
夫の健康を願っているのに……。
夫の入院を機に、
願掛けの断酒を続けている私だけが、
健康になっていく。。。。。。
やるせない思いを持て余していた時、
新聞の片隅で見つけた言葉。
Every thing happen for your happiness.
(あらゆることは、あなたの幸せのために起こっている。)
何があっても、大丈夫。
全ては、私の幸せのため。
そう、思うことで、少し、心が軽くなった。
年末に、緊急入院した病院は、
10月からお世話になっていた、H病院ではなかった。
激痛で駆け込んだのは、通院治療中のH病院だったが、
時期が悪かった。
痛みの原因を調べるため、
採血、採尿、レントゲン、CT、エコー等の検査で、
夫は院内を行ったり来たりと、大変辛い時間を過ごし……。
あげく、年内の診察は午前中で終了ということで、
すでに職員も年末年始の休暇に入っていて、
「人手不足のため、この病院では充分な処置が出来ません」
夫の体の診断も不明瞭なまま、
救急指定のO病院を紹介され、急いで移動。
O病院でも、似たような検査を受け、
結局、そのまま入院となったのだった。
O病院での夫の担当医は、40代半ばの男性。
ちょっと、高圧的な態度が目立ち、
冷たい印象のする人だった。
退院後の通院治療の選択を求められ……。
紹介元のH病院に戻るのか、
それとも、このまま、O病院で治療を続けるのか。
迷ったが、
入院設備が充実しているO病院を選んだ。
夫は、体調が落ち着いてくると、
「好きな酒も飲めないのなら、死んだ方がまし。
飲むことが生きること!!」
飲酒を正当化し、
また、もとの呑兵衛に戻ってしまった。
酔っ払っている夫を見ていると、
もはや、私の願掛け断酒は無意味。
退院から、3か月足らずで、
また、もとの酔っ払い夫婦に戻ってしまった。
4週間ごとの診察時、
血液検査結果は、飲酒の影響で悪くなるばかり……。
「奥さん、ご主人にお酒を飲ませちゃ、ダメでしょう」
担当医が、私の落ち度を指摘する。
「禁酒が出来ないなら、ここでの治療は限界ですね」
担当医に突き放され、
夫の覚悟が決まったようだ。
次回の予約診察日を無断キャンセルし、
O病院との縁を切ってしまったのだ。
ただ、体調は悪いままなので、
自宅の近くの開業医に薬の処方を頼むことに……。
開業医は、夫の希望する薬を用意するだけで、
飲酒に対しては、大らかだった。
取りあえずの、薬の飲用は気休めに過ぎなかった。
その証拠に、
アルコールの弊害が体のあちこちに出て来ていた。
激ヤセが止まらない。
「生きるために、飲まない選択を!!」
いつか、夫が、
自身の本当の病気と向き合う日まで、
私に出来ることは、待つことしかなかった。
ままならない体調も手伝って、夫は涙目だった。
「もう、働けないかもしれないから。。。。」
2009年、7月、
夫は、200万円の札束を私に差し出した。
田舎の母親から、「借りた」と、言っていた。
娘(当時大学3年生)の学費にするよう、
自分がいなくても、金の出し入れが出来るよう、
私名義の銀行口座で保管してほしいとの事。
夫は、思い詰めていた。
自分の命が終わる日を身近に感じ、
家族の行く末を案じていた。。。。。
2008年の年末、
緊急入院時の病名は、急性膵炎だったが、
その根っこには、アルコール依存症が隠れていたのだ。
退院後、治療継続中の飲んではいけない体なのに、
酒を我慢することが出来ない。
そして、飲み出したら、止まらない。。。。。
寝汗、こむら返り、疼痛、感覚麻痺、しびれ、
胃炎、下痢、弱視、不眠等々。
夫の体は、再び、酒害にさらされ、
数々の苦痛を訴えていた。
「大きな病院で、診てもらおうね。
きっと、良くなるから……一緒に行こうね」
私が、いくら誘っても、
夫は、専門病院受診をかたくなに拒否し続けていた。
「もう、入院はイヤだ。。。。病院には行かない」
痛みを紛らすために、飲酒が止まらない。
酒は、鎮痛剤ではない。
「禁酒出来ないのは、アタシもパパも依存症かもね」
遠慮がちに、夫の顔色をうかがうと……。
「酒飲みは、みんな、アルコール依存症だよ」
夫は、他人事のように笑っていた。
このまま飲み続けて死ぬ道と、飲まずに生きる道。
決めるのは、夫だ。
私には、夫の命をコントロールする力はない。
全ては、成り行きに任せる。
夫の思いが籠った札束をじっと見つめながら、
私も覚悟を決めていた。
糖尿病が悪化しているのだろうか?
「足先が氷のように冷たく、膝もしびれるように痛い」
夫は、頻繁に、足の不快を訴えるようになった。
足の痛みをかばうような歩き方で、無理が祟ったのか。
今度は、右足付け根が痛み出し……。
片足を引きずりながらの歩行になってしまった。
受診を勧めても、病院へは行こうとしない。
「どうせ、治らない。。。。。」が口癖になっていた。
そんな最中、2009年10月、
夫の姉2人が、我が家にやって来た。
もうすぐ2歳になる初孫を連れた姉は、愛知県から……。
高齢の母親の思いを託された姉は、山口県から……。
弟の具合を案じて、
新幹線を乗り継ぎ、遥々、訪ねてくれたのだ。
遠方であること、
手狭な賃貸マンションであることを理由に、
姉たちを招待したことは、今まで一度もなかった。
「泊る所の心配はいらないから……。
一目、弟の顔を見たら、すぐに引き上げるから……」
姉たちは遠慮していたが、我が家に泊まってもらった。
姉の自慢の初孫は、
お喋り上手で、人懐こく、可愛い女の子だった。
夫にも、愛くるしい笑顔を振りまいて……。
「自分の孫は、かわいいけぇ、
孫の顔を見るまでは、長生きせんと、いけんよ」
言葉少なに語る姉に、
夫は、「あぁ」と、小さく頷いていた。
時間の許す限り、
横浜の観光スポットを車で案内した。
姉たちは思い出をいっぱい写真に収め、帰って行った。
「みんなに、心配かけちゃったね。
孫に会えるまでは、生きていないとね。
体、ちゃんと、治そうね」
姉たちの思いを代弁する私に、
やっぱり、夫は、「あぁ」と、小さく頷くだけだった。
病気の行方は、成り行きに任せる。
つまり、酒を飲む飲まないは、本人に任せる。
本人が「どん底」を体験しなければ、
アルコール依存症治療への扉は開かないのだ。
酒を飲み過ぎないようにと、
監視したり、口をはさんだり……は、
夫を苛立たせるだけ。
「成り行きに任せる」
そう、割り切ってしまうと、
気分が変わり、行動も変わった。
動けるうちにと、
毎月のように、映画館、行楽地、温泉旅行へと、
二人で出かけた。
2010年、4月。
結婚記念日に、思い出の地を旅した。
宿泊したホテルの夕食は、豪華な和洋会席。
酒は、二人で、熱燗の徳利5本と控え目にした。
食が細るばかりの夫は、
酒で、料理を胃の中に流し込んでいるように見えた。
夜中、水をかき出すような音が聞こえて、
私は、目を覚ました。
夫の姿がなかったので、
トイレに行ったのだと、思った。
しばらくしても戻らないので、様子を見に行くと……。
トイレの手前の洗面台で、夫は嘔吐したらしく……。
その汚物を水で流そうとしたのだが、詰まってしまい……。
今にも、洗面台から溢れそうになっていた。
夫は、洗面台にあった小さなコップで、
汚水をすくい取り、便器へ流し捨てていたのだ。
「大丈夫だから。寝てていいから。。。。」と、夫。
吐き過ぎて、辛そうな夫の姿を目の当たりにして、
見て見ぬふりは出来なかった。
新婚の頃は、どんちゃん騒ぎで、
毎日、楽しい酒だったのに……。
まさか、結婚25年目に、
夜中、宿泊したホテルで、
汚物処理に悪戦苦闘する自分がいるなんて、
夢にも思わなかった。
忘れられない、銀婚式になってしまった。
全ては、アルコールのなせる業だ。
病魔は、確実に、夫の体を蝕んでいる。
体の変調は、本人が、一番よく分かっていたはず。
「来年は、きっと、いないよ。生きていない。。。。」
夫が、そんな自暴自棄な物言いをするたびに、
私は、静かに、穏やかに、受診を勧めた。
「悪い所があるのなら、また、病院で診てもらおうね。
治るか治らないかは、医者に決めてもらえば いいから。
何もしないで悲観してても、何も解決しないから……ね」
2010年5月、
病院嫌いの夫を、再び、総合病院に連れて行くことが出来た。
温厚そうな年配の医師が、丁寧に夫を診てくれた。
「不調の原因は、お酒です。
良い病院がありますので、紹介状を書きましょう。
あまり、堅苦しく構えず、気軽に来院してみて下さい」
勧められた病院は、
アルコール依存症を治療する、有名専門病院だった。
やっと、本当の病気と向き合う時が来た!
病気は治らないが、
その進行を抑えることは出来る!!
楽観的になったのは、私だけで、
夫は、しょんぼりしていた。
紹介された病院へは行く様子もなく、1ヵ月が過ぎ、6月。
2人の子どもは、毎年、父の日のプレゼントを忘れない。
父がいてくれることへの感謝は、
添えられた、短い手紙の中に、いつも溢れていた。
夫は、まだまだ、生きていなくてはいけない、
大切な存在なのだ。
7月、七夕。
短冊に、父の具合を気遣い、無事を祈る、子どもたち。
家族は皆、専門病院での治療を強く望んでいたが……。
本人の意思を無視して、
強引に病院に連れて行くことは、出来ないでいた。
頂いた紹介状は、ただの紙くずになっていた。
専門病院への紹介状をいただいたのは、2か月前。
その間、夫は一度も来院しなかった。
このまま、紹介状はただの紙くずになると、思っていた。
そんな矢先、
「紹介状、まだ、使えるかな?
だいぶ経ってるから、期限切れでダメかなぁ」
夫の声は、か細く、元気がなかった。
体の痛みが大きくなっているのが、手に取るように分かる。
「未使用だから、有効ですよ。 まだ、十分、間に合うから。
絶対、大丈夫だから。。。。病院、行ってみようね」
2010年、7月半ば、
海辺にある、専門病院をふたりで訪ねた。
検査、診察、カウンセラーの結果、
3か月の入院治療を勧められ……。
拒否できないほどに、夫の体は衰弱していたので、
それに従った。
「煮るなり焼くなり、どうにでもしてくれ!!」
そんな心情も、あったのかもしれない。
入院先の病院が、敷地も含め、全面禁煙だったので、
医師に勧められるままに、夫は煙草も止めることにした。
処方された薬(チャンピックス)を飲んで、
徐々に、体内からニコチンを、抜いていく。
禁酒、禁煙の同時進行。
アルコールを抜くだけでも、辛いはずのに……。
入院計画表に基づき、検査、治療……と、
夫は、淡々と日課をこなしていった。
本当の病気と向き合う機会が来たのだ。
この入院治療が、良い成果へ導いてくれるに違いない。
飲まずに生きる道を歩み始めた夫を、
出来る限り、サポートしようと、決めた。
1時間半かけて、電車とバスを乗り継ぎ、
頻繁に夫を見舞った。
院内の売店では、品数は限られていたので、
夫の希望する物を買い揃えては、持参した。
アルコール依存症患者の入院病棟なので、
どうしても、アル中、酒乱という先入観にとらわれて……。
一癖も二癖もありそうな人が、ウロウロしているような、
独特な異空間を想像していたが……。
病棟の出入り口用のドア近くにいたお兄さんは、
荷物で両手がふさがっている私に気付くと、
すぐに、手動の扉を開け、
「荷物をお持ちしましょうか?」と、気遣ってくれる。
ナース室前の掲示板を眺めていると、
通りかかったおじいさんが立ち止まり、
穏やかに話しかけて来る。
お酒の毒が抜けている彼らは、心優しく、人懐こい。
みんな、お酒で、体を壊し、心を壊し、
あちこちの病院を回って、ここに、たどり着いたのだ。
みんな、ここで、良くなってほしい。
まだまだ、人生を終わらせるには早すぎる。
アルコール依存症になってしまったら、
もう二度と「普通に適量を飲む」ことは出来ないそうだ。
でも、
飲まずに「普通に生活する」ことは出来るという。
夫が、本気で病気と向き合い、
克服してくれることを祈るばかりだった。。。。。。
アルコール関連の身体疾患検査のため、
夫は、「第1期治療病棟」で、2週間余り過ごした。
血糖値457 中性脂肪589 γ・GTP752
アルコールの影響を受けて、数値は異常に高い。
「アルコール依存症 ・ 糖尿病 ・ 肝機能障害」
明確に、病名も示されたのに……。
夫は、まだ、納得できずにいるようだった。
納得できないのは、夫ばかりではない。
他の入院患者も、
「自分はアルコール依存症ではない。
家族に連れられ、診察だけのはずが……。
入院を強要されて。。。。。」
病気の自覚がないのだから、入院する必要がない。
酒を止める必要も全くないということで、
自主退院していく人が、後を絶たない。
治療の難しい病気だ。
本格的な治療が始まる「第2期治療病棟」へ移ると、
治療の一環として、外泊が組まれていた。
週末、自宅に帰り、日曜の夕方4時に病棟に戻る。
酒が身近にある中で、
酒の誘惑に負けずに「しらふ」で過ごす。
かなり、ハードルの高い練習なのだ。
外泊したまま病院に戻らず、消えて行った人たち。
家から隠し持って来た酒を、
病室で飲んで、強制退院になった人たち。
夫は、入院中、何人もの挫折者を見て来た。
そんな入院生活も、中盤に差し掛かった面会時、
「俺は、依存症なのかなぁ~。
違うような気がするんだけど……」
と、夫が言い出したので、私は耳を疑った。
院内では、
「アルコール勉強会」というプログラムがあり、
患者も家族も、
依存症についての正しい知識を深めている。
飲んではいけない時間に、
飲んではいけない場所で、
飲んではいけない体で……。
酔い潰れるまで酒を飲んでいた夫は、
まぎれもなく、アルコール依存症だ。
脳内に、酒を飲ませようとする回路が出来てしまい、
飲酒コントロール不能状態。。。。。
アルコール依存症の専門病院に入院しているのに、
「アルコール依存症ではないような気がする。。。。」
夫は、首をかしげて、ぼそっと、つぶやいていた。
アルコール依存症は、別名「否認の病気」なのだ。
本人だけが、病気の自覚に欠けている。
会社に3ヵ月の休暇を認めてもらい、
高額の病院代も覚悟して……。
夫を病院に預けたのは、
全ては、夫の回復を祈ればこそ。
病気を正しく理解しなければ、
治療効果は期待できない。。。。。
長期入院も、
時間と金を無駄に使ったことになってしまう。
体の痛みが落ち着いて来た夫は、
不自由な入院生活に、うんざり気味になっていた。
自身の不始末で入院が長引くことのないよう……。
治療途中で病棟を去って行った患者を横目に、
夫は、努めて優等生だった。